1977-1978シーズン、ボストン・カレッジは22勝9敗だった。全国的な強豪ではないが、強い地域カンファレンスに所属し、チェスナットヒルキャンパスのロバーツセンターに観客を集め続けていた。ヘッドコーチはトム・デイビス。スターティングのフォワードは、ペンシルベニア州スウィスベール出身、身長198センチのジュニア、リック・クーンだった。彼の高校時代の活躍はピッツバーグ郊外で行われた。
1978年夏、クーンはある結婚式でトニー・ペルラと名乗る男に声を掛けられた。ペルラはニューヨークのルッケーゼ犯罪組織の下層メンバーで、クーンの高校時代の友人のいとこにあたる。結婚式での会話は何気ないものだった。その数週間後に続いた会話は、もはや何気ないものではなかった。
ペルラには商売の計画があった。彼はクーンに対し、これから始まる1978-1979シーズンのボストン・カレッジの一部試合でスコアを調整することを提案した。仕組みは単純だった。クーンが個別の試合を意図的に落とす必要はない。最終的な勝敗のマージンが、ラスベガスで定められるポイントスプレッドの適切な側に落ちるように調整するだけでよい。スプレッドは東部主要都市の違法ブックメーカー網を介して賭け手に広く出回っていた。成功した試合1試合あたりクーンが受け取るのは2,500ドル、他の選手を勧誘した場合には追加の報酬が支払われる。
クーンはチームメイト2人を引き入れた。スターティングのガード、ジム・スウィーニーが同意した。チーム得点王のアーニー・コブにも持ちかけたが、コブは後に自身の関与の度合いを争うことになる。勧誘はシーズン開始前、1978年秋口に行われた。選手側のグループはクーン、スウィーニー、コブの3人。賭けの側のグループは遥かに大きく、その中心にいたのが、ブルックリンを拠点に活動するルッケーゼ犯罪組織の関係者ヘンリー・ヒルだった。
ヒルが主たる組織者だった。彼はニューヨーク、ニュージャージー、ピッツバーグの違法ブックメーカーを通じて賭けを差配し、試合前の連絡はボストン地域のモーテルにいるクーンとスウィーニーへの長距離電話で取り仕切った。現金は彼自身が運び、ニューヨークからボストン、ピッツバーグ、その週末にボストン・カレッジが試合を行うあらゆる場所へと足を運んだ。この作戦におけるヒルのルッケーゼ組織内の上司は、ブルックリンを拠点とするカポレジーム、ジェームズ・バークだった。バークはニューヨークとニュージャージー北部で大規模な違法スポーツベッティング事業を支配していた。
計画は1978年12月から1979年3月まで動いた。標的となった試合は9つ。マフィアの定めたスプレッドの基準で見て、6試合が思惑どおりに着地した。3試合は失敗した。選手側がマージンを制御しきれなかったか、ブックメーカーがラインを動かして調整の旨味が消えたかである。後にFBIの調書と公判記録から再構成された通算利益は、シーズン全体でおよそ10万ドル。選手側の取り分の総額はそれよりはるかに少なく、クーンとスウィーニーを合わせてもシーズン通して約17,000ドルだった。
ボストン・カレッジは1978-1979シーズンを21勝9敗で終え、NCAAトーナメントには招待されなかった。選手が試合を投げているわけではなく、マージンを微調整していただけなので、チームのパフォーマンスに目に見える変化は出なかった。シーズン中、ボストン・カレッジのコーチングスタッフはこの計画を見抜けなかった。アスレチック・ディレクターも、NCAAも見抜けなかった。当時の主要な外部インテグリティ・チェックだったラスベガス系スポーツブックによるラインの異常分析は、標的となった試合の幾つかを実際に「要検討」として上げていたものの、1978-1979シーズン中にそれが連邦捜査の閾値に達することはなかった。
この仕掛けは、まったく無関係な事件がなければ、おそらく検出されぬまま続いていただろう。1978年12月11日、ボストン・カレッジの最初の標的試合の3週間前、ジェームズ・バークはニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港のルフトハンザ航空貨物施設で、現金約600万ドルと宝石100万ドル相当を奪った。これは当時、米国史上最大の現金強奪事件だった。ヘンリー・ヒルはその計画段階に関与していた。続く数か月、バークは強奪の関係者を次々に殺害させ、証拠を消し、後に当局に協力できる人数を減らした。ヒルは殺されなかった。しかし1980年5月、別件の薬物事件で逮捕され、重い連邦刑を覚悟することになる。
1980年6月、ヒルはFBIへの協力に同意し、連邦証人保護プログラムに入った。彼はルフトハンザ強盗、バークによる一連の殺人、そしてニューヨークにおけるルッケーゼ組織の活動の相当部分について証言した。その協力の一環として、ヒルはボストン・カレッジのポイント・シェービング計画の存在を明かした。これを発端に、1980年夏から1981年春までの連邦捜査が動き出す。捜査は3人の選手、ボストン・カレッジのコーチングスタッフ、ヒルが名指ししたニューヨークのブックメーカー、そして賭けを引き受けていたラスベガスのスポーツブックへの広範な聴取を含んでいた。
起訴は1981年2月に行われた。リック・クーン、ジム・スウィーニー、アーニー・コブ、ヘンリー・ヒル、ジェームズ・バーク、トニー・ペルラ、そして関係する他の人物は連邦法の共謀およびスポーツ贈収賄で訴追された。公判は1981年11月、ニューヨーク東部地区連邦地方裁判所で開かれた。ヒルは検察側の証人として証言した。クーンは有罪となり、10年の連邦刑を言い渡された。これは米国でポイント・シェービングに関与した大学スポーツ選手に下された最長の刑として、現在に至るまで破られていない。スウィーニーは公判で取り扱われた事実について無罪となった。コブも無罪だった。バークとペルラはそれぞれ重い連邦刑を受けた。ヒルは検察への協力により追加の服役は行わず、証人保護のもと別の地で再出発した。
ヘンリー・ヒルの協力は、1970年代のニューヨーク・マフィアに関する公的な代表的記録を生み出した。彼は作家ニコラス・ピレッジに広範なインタビュー素材を提供し、それは1985年に書籍『Wiseguy』として刊行された。同書は1990年公開のマーティン・スコセッシ監督作『グッドフェローズ』の原案となり、ヒルをレイ・リオッタが、バークをロバート・デ・ニーロが演じた。映画ではボストン・カレッジのポイント・シェービング計画が後半に比較的短いシーケンスとして登場する。ルフトハンザ強盗は同じ時期の話として、映画内ではより長いシーケンスを占める。ヒル自身は2012年、69歳でロサンゼルスで自然死した。
ボストン・カレッジ事件は、現代の米国大学スポーツのインテグリティに関する典型的なケーススタディである。1978-1979シーズンの計画は、NCAA、各主要プロリーグ、そして各州のギャンブル規制委員会で必ず引かれる事例となっている。事件の構造的教訓は次のように要約できる。ポイント・シェービング作戦に試合を投げる必要はない。マージンを制御するだけで十分である。マージンの制御は試合そのものを投げるよりも検出が難しく、コーチングスタッフ、他の選手、所属機関のいずれにも知られずに、1人のスターターだけで実行できる。1981年の起訴を最終的にもたらした検出メカニズムは、試合内パフォーマンスの統計分析ではなく、たまたまその計画を知っていた連邦証人の予期せぬ協力だった。2026年現在、スポーツブックや大学のカンファレンスが日常的に用いているインテグリティ・ツールは1978年当時より大幅に高度化しているが、クーン事件の中心的な教訓、すなわち報酬の少ない1人のスターターが1シーズン分のポイントスプレッドを継続的に操作できるという点は、依然として大学スポーツのインテグリティ・プログラムを基礎づける関心であり続けている。